2017
08.15

井上秀、第4代校長に

Category: 広岡浅子
成瀬仁蔵は、大正8(1919)年1月29日、看護の付き添いを受け、
御下賜の袴をつけて安楽椅子によりかかって、最後の講演を行いました。
その中で、次の校長に麻生正蔵を指名し、井上秀に家政学部学監、
平野浜子に学生指導主任を任せるとして、やがては、
「本校の娘」に重大職務(校長)を担ってもらうことが希望だ、と主張。
そして、3代校長の渋沢栄一(昭和6(1931)年4月~11月)を補佐した後、
井上秀は、卒業生としてはじめての校長となります。

 私は渋沢校長の下に学監として立つことになり名は学監でありましたが、
 校長としての仕事は全部身を以て私が当たらなければならぬことになりました
 処が本校僅か六ケ月昭和六年十一月十一日渋沢子爵は逝去されました。
 そこで、現在一同、協議の結果、第四代の校長を誰にするかということを、
 日本各地にいる桜楓会会員に、選挙の形でよびかけました。
 その結果は、井上秀子ーー私にという声が多数あつたというわけで、
 與論によるという好ましいあり方で、私がついに校長たることに定まりました。
 前にも申しましたように、第一回卒業生であり、
 「本校の娘たち」の一番上の姉ともいつてよい私の実質的な事情が、
 事ここに至つたのだと申してよろしいのでしよう。

成瀬仁蔵の遺言から12年後、「長女」のような井上秀が校長となったのです。
これはおそらく、広岡浅子の願いでもあったはずです。
井上秀は、戦後まで15年にわたって校長の任をまっとうし、
公職追放が解除されてからは理事、評議員、桜楓会理事長となります。
昭和31(1956)年、小田原女子短期大学の学長に就任しました。
日本女子大学の校長は、その後、大橋広、上代タノと女性が続きます。

 成瀬校長の烈々たる御志、広岡浅子刀自のつくし抜いた御心情、
 かれこれ思いつづけますと、私は、もはや、私一人の生命でなく
 この先に逝かれた方々の御芳魂にみちびかれて進む
 日本女子大学の敷石の一つといつてよい生命だとおもうのでした。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

入学当初から一生を、井上秀は、日本女子大学とともに生き、
責任感、使命感を持ち続けていた、と言えます。

余談
「ひよっこ」、時子をさしおいて、みね子や豊子がなぜかテレビにさらりと……。
「カレーライスに出会った最初の日本人として記録に残っているのは誰でしょうか」。
「カレーっていったら和夫さんしか思い出せねえ」と澄子。
乙女寮の味は(歴史の記録でなく)彼女たちの記憶に残っている。
勝ち抜きクイズに豊子が出場、賞金は30万円とハワイ旅行。
秋田でも、同じテレビを見て、優子が応援。
東京大学工学部のエリートに、通信で高校を出た豊子が勝って気持ちいい。
そして、勝敗を決めたのが澄子の苗字「青天目」の読み方なんて。
「よかったね。頑張ってたら、いいことあるね」
2017
08.14

家政学部こそが特長

Category: 広岡浅子
成瀬仁蔵を支え、開校したばかりの学校の校風を作った、井上秀と平野浜子。
学校の経済的な面のことにも、彼女たちは関わったようです。

 その外設立されたばかりで理想は大きく高くても実行力が時には伴はない。
 又どんな大きい事でも、どんな美しい事でも、
 「経済力なし」には出来ません。
 ところで、この「金あつめ」むずかしく云えば、
 経営苦労は、苦労の中の苦労です。
 成瀬校長が、心を砕かれたのもこの事、
 そして、平野さんや私が、先生の手となり、足となり、
 奔走しつづけたのもこれらの事があつたのであります。
 これは「縁の下の力もち」であります。
 そしてこの「縁の下の力もち」するものがなかつたら、
 今日の日本女子大学の隆盛は見られなかつたでしよう。
 少しでも校長の苦労をかるくしたいものと、
 二人は協力して、奮闘致しました。
 時には泣いたこともあります。
 ためいきをつく数日がつづいたこともあります。
 財界、政界、各方面の有名な方々をこの目的のために、おたずねをし、
 知遇を恭なくした次第ですが、ある時、
 すばらしい方にあつて、すばらしいお言葉をもらいました。

設立資金を得れば、それで終わりではなく、経営資金が必要になる。
成瀬仁蔵は、そういう方面の協力をも、井上秀と平野浜子に求めていたのです。
しかし、井上秀は、経営資金を集める活動の中で、
「鐘紡の社長の和田豊治」に出会い、金言をもらいます。

 『何れの学校でも特長というものが要る。
 特長がハッキリする必要がある。
 慶應義塾は「理財科」がいいという特長、
 早稲田大学は「文学」がいいという特長、それが学生の心を惹く。
 日本女子大学の発展のためには、「家政学部」を特長としてはどうです。
 その方針ですすまれるなら、私が学校評議員にもなりましよう
 而して学校発展のために力を尽しますが……』
 私は、これを聞いて、心から感動したのです。
 まつたく、「特長だ、特長だ」とくりかえしました。
 『その特長を出す努力をちかいたいとおもいます。
 成瀬校長も、創立当時から、家政学部こそ
 本大学の中心となるべきものだとおつしやつていた位ですから……。
 更にヨーロッパアメリカの方での状勢もしらべ、日本の伝統も生かし、
 新しく正しい、万人のよろこぶ衣食住の科学的生活の建設をめざして、
 すすみたいと思います』と私は答えたのでした。
 そして、経営への御援助もいただく事が待望されて居りましたが、
 不幸にして早く亡くなられた事は誠に惜しみても余りあることでした。
 私が、英文学部は誰でも入る、
 人の目につかぬ家政学部こそあなたの入るところだと
 成瀬校長にみちびかれた事を和田さまに申しはしませんでしたが、
 期せずして、えらい人の目のつけどころは同じ方向でありました。
 日本女子大学の特長は「家政学部」というつよい決心が立つてから、
 私は前にもまして孜々と、その方面の研究をすすめました。
 それにしても、初めてのアメリカ行から何年かたつているあの地の
 家政学部を見に行つて来ようと考えました。
 (大正十一年十月のことです)
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

和田豊治が亡くなったのは、大正13(1924)年のこと。
この出来事は、すでに成瀬仁蔵や広岡浅子、平野浜子も世を去った後の、
大正11(1922)年10月であった、とあります。
上記の言葉にあるように、和田豊治は日本女子大学の評議員になっています。
井上秀は、その10月、ワシントンで開催された世界婦人軍縮会議に出席し、
11月からアメリカやイギリス、欧州各国の女子養育を視察しています。
東京女子大学も創立され、大学をどうすべきか、熟慮していたのではないか。

余談
「ひよっこ」、家族といたいという気持ちもあるけれど、東京に帰りたい、
自分の場所で働きたい、と思うみね子。
働くこと、身体を動かすのが楽しい、と実感する。
自分の居場所……、あのベンチで1人座る川本世津子はこれから?
豊子は、あれで林檎の不作の借金を返済したのか。
さおり(米子)、三男をとられないために、時子の女優への夢を応援……。
お米よりパン、名前も勝手にさおりと名乗り、彼女も別人になりたい人。
そうか、食いしん坊の澄子は、いつも腹を立て続けてきたんだ。
澄子も、帰郷を拒み、東京を居場所だと思っている。
2017
08.13

井上秀と平野浜子

Category: 広岡浅子
井上秀は、成瀬仁蔵の助言のままに家政学部に入学した当初から、
寄宿舎の寮監をつとめるなど、日本女子大学校のために尽力しました。
開校したばかりの、日本で最初の女子大学校の「基礎」を、作ったのでした。

 功名心を持たぬこととなつている私は、
 日本女子大学の創立当時から今日までの基礎づくりに、
 生徒であるうちから、使われたというか、使つていただいたといつてよいか、
 とにかく煩鎖な事を次から次へと申しつけられたものです。

「功名心」などは持たないからこそ、家政学部に入ったはずであったのに、
井上秀は、むしろ日本女子大学の校史に名を残したのです。

 成瀬先生は、前にも申したように、婦人逝去後ずつと独身生活でした。
 この先生が、或は早朝に、或は夜おそく、私を呼ぶのです。
 そんな時、私一人では決してない。
 いつ、どんな時でも、平野浜子さんと二人で呼ばれました。
 平野さんはもと横浜フエリス女子校で教師をされていたのでしたが、
 日本女子大学が開校されるについて女学校の教諭として招聘された人で
 実に英語は堪能であり通訳等は実にうまいものでしたが、
 ほんとうにやさしい行き届いた方でした。
 俗にいう、合性とでも申しますか、
 この人は女性的で細心な性格の持ち主であり、
 私は、積極的の要素が多い方、
 『形影相伴う』という風に二人はいつなにをするにも、
 離れない一対でありました。
 この二人が成瀬校長に呼ばれて、その構想のもとに立働いたものでした。
 私の女房役だった、心やさしい平野浜子さんを、
 そのおなくなりになった年から何十年もたっているのに、
 いつまでもなつかしく、ああ平野さんが在世でしたらと
 窮する事の起つた時は思い出さずにはいられません。
 平野さんと私とが、日本女子大学の発展のために、
 何をしたかと申しますと、その主な事は、自治生活、団体生活の寮風、
 学風を作ることに骨を折つたのであります。
 長い間、封建制度の許に、官尊民卑の思想に採られ、
 日本で殊に女子として親や夫に依存する習慣をもつた女性を、解放して、
 真に独立自尊、民主主義の教育をしやうとして骨を折られた
 成瀬先生の学校教育の方針は明治の時代としては誠に目新しいもので、
 それの実践に容易な事ではなかったのであります。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

独身の成瀬仁蔵は、女学生や女性教員を部屋に呼ぶのに気をつかった。
これを読むと、もっとも大事な「校風」作りに頼ったのが、井上秀と平野浜子で、
「積極的」な井上秀と「女性的で細心な性格」の平野浜子は、いいコンビ。
(玉木直などには、もっとプライベートな面で頼ったかもしれない。)
封建制度が長く続いた日本で、「自治生活」を女学生たちに根付かせるのは、
確かに難しい課題だったはずで、寮監だった2人の役割は大きかった。
平野浜子は、後に英文学部の教授、学制指導主任になりましたが、
成瀬仁蔵のあとを追うように、大正8(1919)年に亡くなりました。
2017
08.12

「あなたは家政学部に入学をなさい」

Category: 広岡浅子
井上秀にも、ほかの女学生と同様に「功名心」があったかもしれません。
英文科を志望していた井上秀が、家政科に入学したのは、
難しい入試を断念したからではなくて、成瀬仁蔵に勧められたからでした。

 成瀬校長は、英文学部志望の私に次のように云はれました。
 『井上さん。あなたは家政学部に入学をなさい。
 国文学部や英文学部は誰でも入る。
 人が目をつけない家政学部こそ、あなたが入るべき学部ですぞ。
 今でこそ、人が重きを置かないが、この家政学部こそ、
 我が日本社会には必要な学問で、
 将来、この日本女子大学の中心となる学部なんだ。
 あなたは、この学部で、一生懸命、勉学してほしいんです』
 又、先生は私を教えられました。
 『今、本校えは、好奇心にかられ、功名心にもえて
 入学しているものが相当あるらしいが、長続きするもんぢゃない。
 人間がもつとも、真実になつた姿は、名を求めないその姿だ。
 あなたも、名を出すというような事のために、
 勉強したらいかん、いいか、分りましたか』
 古くから、頂門の一針という詞がありますが、それと同じ訓示でした。
 そこで、かつて嵯山和尚について禅を学んだ心境も手伝ったのでしょう。
 一本調子の性質であるにもかかわらず唯々諾々で、
 校長の御希望通りの私の道を私は黙々と歩いたのでした。
 既律を回顧いたしますと、それでよかつたと思いあたる事ばかりです。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

成瀬仁蔵は、井上秀の中に、何か資質を見出していたのでしょうか。
家事ではなくサイエンス、といった新しい学問として、家政科に期待していた。
その言葉に素直に従えたのは、すでに絶大な信頼があったのでしょう。
2017
08.11

女学生の「功名心」

Category: 広岡浅子
井上秀は、当初は英文科を志望していたものの、家政科に入学しました。
それがまた、彼女の人生を大きく導く岐路となりました。
開校した当時は、家政科への志願者は少なかったようです。

 日本女子大学は明治三十四年四月二十日、創立の当初から、
 国文学部や英文学部と併んで、家政学部が置かれました。
 そして、日本女子大学に入学しようと志すものは、まず、
 英文学部であつたり国文学部であつたりで、
 家政学部へ、志願するものは少なかつたのです。
 私にしてもそうでした。
 何でも英文学部に入つて、英語が話せる様になり
 それから外国にも出掛けて研究もしたいと思つたものでした。
 当時、日本女子大学に集つた生徒の全部とはいわないまでも、
 多くのものが、功名心に燃え立つている人々でした。
 我れこその思い上つた有様で、いろんな方面からの人が集つたので、
 年齢からいつても、十代から三十代近くまで、
 境遇からいつても、娘あり、妻あり、離婚婦人あり、女先生だつた人あり、
 女事務員だつた人あり、中には商売繁盛をもくろんで
 (料理庖丁を売りひろめるため、等々)入りこんだものもあり、
 文字通り、てんやわんやの雑然さだつたのです。
 この玉石混交の学生たちを訓陶して桜楓会員共通の魂をどの生徒にも与え、
 皆を一団として、桜楓会精神を作り上る為には
 成瀬先生は非常な骨折であつたとおもいます。

そもそも、井上秀自身がすでに26歳、夫があり、娘(支那)を生んでいました。
境遇も、年齢も、バックボーンをさまざまにもった、女学生たちでした。
平塚らいてうが上級生に反感をもったのも、年齢差が理由でもあったはず。
「功名心」あればこそ、家政といった方面に進みたくはないのもわかる。

 功名心に燃えて入つて来た人々は、家政学部なんか目もくれなかつた。
 又、そうでない人々でも、『女子大学だからと云つて、
 大学という以上は、御料理をしたり、洗濯したり、
 女中のすることを学科に組み入れてあるのは、
 大学として価値を下げるものだ』として
 日本の所謂学者の間ですら該々たる反対の声もありました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

とはいえ、平塚らいてうは、家政科ならば、と親に入学を許されたといいます。
現在、「家政」という名のつく学科が減り、名称変更している事情も……。
しかし、成瀬仁蔵は、とりわけ家政科に期待を込めていたのです。

余談
「ひよっこ」、身体が覚えたことは、眠っていても、記憶を失っても、できる。
戦争から、東京から帰って、行き直すことを選んだ実と宗男。
土砂降りの中の田植え、「大丈夫け?」と口々に言いながら、答える人たち。
つらいことや悲しいことは、笑ってしまえばいい。
誰でも、忘れてしまいたいことはある。
(雨の日は川本世津子と出逢った日を思い出さないのかな、と思ったり。)
あの稲刈りのシーンの回想、何も変わっていない、覚えていなくても。
終戦記念日は来週、でも、今週は広島、長崎の原爆の日があった。
その週に、「ひよっこ」は、失ったものがあっても大丈夫、ということを描き、
(録画スペースをあけるために見直した)「花子とアン」では、同じ週、
関東大震災で大変なとき、そんなときこそ、物語の本を作るべき、と描いた。
こういうときこそ、花子の物語の本を待っている人がいるだろう、と伝助。
そして、蓮子は奇しくも、「帰る家があるって、うれしいことね」。
「最上のものは、過去にあるのではなく、未来にある」。
その台詞が、「ひよっこ」とも重なって、響きます。
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