2017
10.14

徳冨蘆花、今治に身を寄せる

Category: 山本久栄
徳冨蘆花「黒い眼と茶色の目」は、徳冨蘆花(健次郎)の青春時代を描きます。
蘆花自身は、作品の中で、敬二という主人公。
敬二は実家に居づらくなり、父は彼を「従兄に當る耶蘇敎の牧師」に託します。

 從兄の又雄さんは三十下で最早牧師として目ざましい成功をして居た。
 又雄さんの阿母(おかあさん)は敬二が母の妹であつたが、
 阿父(おとうさん)は敬二の父の爲には二人とない恩師であつた。
 敬二の父は其律儀な性質から、姻戚關係になつても
 苟(かりそめ)にも師弟の禮を亂さず、
 師の亡き後迄も遺族に對するに殆ど主家に對する禮を以てした。
 父の血を受け父の尊敬を見馴れた敬二は、
 学問修養の上からも處世上の地位からも別世界に住んで居る様な、
 己より年齢の十餘も多い又雄さんを、たゞの從兄とは思ひ得なかつた。

ここに「從兄の又雄さん」とあるのは、横井(伊勢)時雄のこと。
蘆花の父は徳富一敬、だから、作品の中の自分を敬二としたのでしょう。
徳富一敬は横井小楠の門下で、その小楠の子が横井時雄。
横井小楠の後妻、津世子の姉である久子が、徳富一敬の妻であり、蘆花の母。

 敬二の眼から見る又雄さんの頭上には、「過去」の輝きがあつた。
 郷里の洋學校で逸早く耶蘇敎を信じ、
 劇しい郷當迫害の中に火の様な信仰を輝かした靑年殉道者の一人として、
 ローマンチツクな色彩に彩られた又雄さんの名が
 敬二の耳に初めて響いたのは、敬二がまだ七八歳の頃であつた。
 十一二歳の敬二は、帝國大學の前身開成學校から京都協志社英學校に轉じ
 別格聖書級(バイブルクラス)の二三を下らぬ秀才として
 校長飯島先生から殆んど下へは置かぬ待遇を受けて居た又雄さんを見た。
 それから唯七年、敬二の身長が一尺餘伸びる間に、
 又雄さんは燧灘(ひらちなだ)の波ひたひたと寄する豫州の濱邊に、
 數百の信者を作り、大きな會堂を建て、
 其敎會の評判は遠く海外に馳せ亜米利加から祝意を表して
 わざわざ音の好い大きな鐘(ベル)を贈つて來た程の成績を挙げたのである。
 十八の春、又雄さんに連れられ、郷里の熊本から伊豫に往つて、
 日曜の朝夕、水曜金曜の夜毎に、其好い鐘の音を敬二は聽いた。
 (『徳冨蘆花集 第11巻』日本図書センター、1999年)

言うまでもなく、協志社は同志社、校長の飯島先生とは新島襄。
蘆花は、兄の猪一郎(徳富蘇峰)に伴われ、11歳のときに同志社英学校に入り、
15歳で退学して、父が開設した共立学舎、兄が開設した大江義塾で学び、
明治18(1885)年、18歳のときに横井時雄を頼って今治に赴きました。
小説では「伊豫」となっていますが、蘆花は、今治の教会で働いたのでした。
そして、横井時雄の妻が、新島八重の姪にあたる、みね。
ちなみに、美しい音であったという鐘は、戦時下に没収されたとか。
2017
10.13

「7歳で早世した鳥取の文学少女・田中千鳥」

Category: 日記
電子の波に乗っていて、「千鳥」という夭折した少女のことを知りました。

 7歳で早世した鳥取の文学少女・田中千鳥を映画で再評価
 生誕100年に合わせ19、20日に県内で上映

 自然や身の回りを素直な目で見つめた詩を数多く作りながら、
 わずか7歳で生涯を閉じた鳥取県出身の田中千鳥(1917~24年)。
 今年の生誕100年に合わせ、
 千鳥の世界を再評価しようと短編映画「千鳥百年」が制作された。
 全国に先がけ、19、20日、県内で記念公開される。
 千鳥は気高郡正条村(今の鳥取市気高町)生まれ。
 5歳で自由詩を作り始めた。
 体が弱く7歳で早世するまで、40編の詩をはじめ、
 作文、日記、お話などをつづった。
 山陰初の女性新聞記者とされ、
 作家としても活躍した母、古代子(こよこ)は娘の早すぎる死を悼み、
 創作を「千鳥遺稿」としてまとめている。
 「千鳥百年」を制作した映画監督、田中幸夫さん(65)は10年ほど前、
 再版された同書などを読む機会があり、
 千鳥の創作に感銘を受けて映画の構想を温めた。
 「幼い千鳥は、先入観のない目で見たままを詩にした。
 それが深く、余韻のある文学にしている」
 その映像化にあたり、この1年ほど、
 大山、岩美町、弓ケ浜半島など鳥取県内をロケ。
 「千鳥は何を見ていたか。何に感動して詩を書いたのか」を求め、
 シンプルで深みのある詩に感応する風景や被写体を探した。
 それは時に、虫食いの葉っぱであったりもしたという。
 30分間の映像に、千鳥の詩十数編の朗読、
 スウェーデンの伝統唱法・キュールニングで「千鳥百年」を構成した。
 映画は、19日に琴浦町生涯学習センター、
 20日に米子ガイナックスシアター、倉吉交流プラザ、
 鳥取市総合福祉センターさざんか会館で上映。
 入場料500円。来春、東京や大阪などで公開を予定している。
 (2017年8月10日「産経ニュース」)

千鳥はもちろんですが、その母の涌島(田中)古代子も気になります。
「山陰初の女性新聞記者とされ、作家としても活躍した母」。
古代子は、大正8(1919)年、大阪朝日新聞社創立40年記念懸賞小説選外佳作。
そのときの一等入選は、あの吉屋信子でした。
千鳥を失った後、古代子も、38歳の若さで死去しています。

余談
「わろてんか」、藤吉からも新一からも、「笑っていてほしい」と言われた、てん。
本当に困難がやってきたとき、てんは、その宿命を重荷に感じるのでは?
笑いは藥になるけれど、笑うって簡単なことじゃない、とならないと。
「笑う」の反対は「泣く」だろうけど、泣いてもいいよ、と誰がてんに許すのか。
2017
10.12

『今日も一日きみを見てた』

Category:
角田光代『今日も一日きみを見てた』(角川文庫、2017年)、読了しました。
ブログやツイッターでも拝見している、愛猫のトトがかわいくて……。
はじめて猫とともに暮らすことになった、角田光代さんの軌跡に感動しました。
私は、猫さんが大好きですが、いっしょに生活したことがありません。
だから、何だか追体験しているような気持ちになって、一喜一憂したのです。

 どうかトトが、夢のなかでこわかったり
 ひもじかったりする目には遭いませんように、という、
 馬鹿みたいだけれど、わりあい本気の願望。
 だって、私たち人間は、そのこわかった夢を人に話すことで
 笑い話にしたりできるけれど、猫にはそれを伝える術がないのだから。
 それにしても、本当に自分が、猫の寝息に至福を覚えるばかりか、
 猫の夢の平穏を祈るような種類の人間だというのは、
 トトと出会うまで知らなかったことである。
 (角田光代『今日も一日きみを見てた』角川文庫、2017年)

生命を守る責任を負う、ということは、新しい自分の発見なのかもしれません。
猫と暮らしたいな、といつも思うけれど、その自信もない私です。

余談
「花子とアン」、史実もそうだったと思うのですが、この作品の中で、
1人だけ父親に贔屓され、高等教育を受けることで兄妹から恨まれたり。
(この時代、きょうだいのうち、1人を選んで教育を受けさせる例はあったはず。)
後に腹心の友の蓮子から、息子を戦争に行かせたとなじられたり、
このヒロインは、わりと甘やかされていない方ではないか。
「わろてんか」、伊能さまは明らかに五代さまのポジション。
五代さまは、ディーンさんが新鮮だった衝撃が大きかった気がします。
大阪の朝ドラはお嬢さま、が続きます。
2017
10.11

『女性画家たちの戦争』

Category:
遅まきながら、吉良智子『女性画家たちの戦争』(平凡社新書、2015年)読了。
もう1つの美術史、勉強になりました。
戦時下に限らず、それ以前の女性画家たちが置かれた状況になるほど……。
長谷川時雨の妹、春子の活動など、これまで知りませんでした。
戦争中、不足していた絵の具や食品と引き替えに、戦争画を描いたとか、
戦争画を描くにしても、男性画家とはそもそも求められるテーマがちがうとか。
これは、美術史であり、女性史であり、戦争の歴史でもある。

 女性画家と戦争について語る前提として、なぜ女性画家は少ないのか、
 なぜ私たちは女性画家のことをこんなにも知らないのかということを、
 歴史的な視点から考えてみる必要があった。
 歴史を丁寧にひもとけば、近代という時代における
 社会制度的・政治的な規制や規範が、
 彼女たちの創造活動をコントロールしていたことがはっきりと見えてくる。
 しかし、女性たちのなかには一方的に制御されるだけではなく、
 現実と折り合いをつけながら粘り強く制作を続けた者たちも大勢いた。
 この前提を押さえてようやく
 戦時下の女性画家の創作について考えることができる。
 改めて戦争という時代を鑑みるとき、現代の私たちには、
 一般の人々を含めた当事者は意に染まないこともやるしかなかった
 というような「思い込み」が少なからずあると思われる。
 だが、本書をお読みいただければ、実際には強制というよりは、
 むしろこちらから参画していった側面もあることがおわかりいただけるだろう。
 戦争の時代とは、一様に重苦しく息苦しい時代という認識があるかもしれない。
 だがそれは一面的なものにすぎない。
 女性たちは、差別的な待遇や制度に苦しんだ末に
 そこからの脱出の機会を戦争に見出した。
 女性画家に限れば、自覚的に参画していった者はあまりいなかったとも言える。
 しかし本人たちには想定外だったかもしれないが、《皆働之図》を見れば、
 自分の社会的な立ち位置に対する言語化の難しい
 もやもやとした違和感や無自覚のわだかまりのようなものが、立ち上ってくる。
 表象とは時に当事者たちが思いもよらなかった結果を生み出すことがあるのだ。
 ここで翻って現代日本社会を見てほしい。
 戦争とは意気盛んな人々が巻き起こす「普通ではない」狂信的行為だという。
 ここにもまた「思い込み」がないだろうか。
 しかし、女流美術家奉公隊に参加した女性画家の大部分は、
 意気軒昂というわけではなく、誘われたから何となく加わった者たちであった。
 このような当時の女性画家と現代の私たちとの間には、
 大きなへだたりはないのではないだろうか。
 (吉良智子『女性画家たちの戦争』平凡社新書、2015年)

本書の「おわりに」には、端的にこのように書かれています。
これは、美術界だけではなく、女流文学者の戦争協力にも言えそうです。
女性の戦意高揚のために、はじめて活躍の場を与えられた女性たちがいた。
利用されていると漠然と思っても、誇らしさと奮い立つ思いがあった。
逆にいえば、それ以前の女性たちは、家庭に押し籠められていたのでした。
女性の戦争協力は、通史的に見て、その立場を考慮せねばなりません。
本書を読んで、そう学んだように思います。

余談
今週、「花子とアン」は明治41(1908)年、「わろてんか」は明治43(1910)年。
「わろてんか」は、役者も内容も欲張ったなあ、という印象がまずある。
これまでに成功した朝ドラの風味をすべて入れた、みたいな。
2017
10.10

芥川龍之介の恋文の展示

Category:
芥川龍之介は、妻の文に宛てた恋文がたくさん残されていますが、
田端文士村記念館で、はじめて公開される手紙があるよう。

 芥川龍之介  恋文、初公開へ 「小鳥ノヤウニ幸福デス」

 作家の芥川龍之介(1892~1927年)が結婚前の妻に送った恋文が、
 東京都北区の田端文士村記念館で10月7日から初公開される。
 「愛シテ居リマス」「小鳥ノヤウニ幸福デス」という甘く熱っぽい言葉は
 妻の文の回想録などで紹介されていたが、
 直筆が公になるのは初めての機会だ。
 1918年2月に結婚した芥川と文。
 ラブレターは400字詰め原稿用紙の切れ端に書かれていた。
 文はその紙を便箋に貼り付け、しまっていたという。
 「ワタクシハアナタヲ愛シテ居リマス コノ上愛セナイ位 愛シテ居リマス 
 ダカラ幸福デス 小鳥ノヤウニ幸福デス」 (共同)
 (2017年9月27日「毎日新聞」)

田端文士村記念館では、2017年10月7日から2018年2月4日、
企画展「芥川龍之介の結婚と生活~ワタクシハアナタヲ愛シテ居リマス」開催。
田端で祝言をあげた芥川龍之介と文は、来年は結婚100年を迎えます。
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